自分の成長を感じるのは難しい|イメージが遅れることは(ほとんど)ない
仕事の効率というのは覚えたてのときと、ある程度慣れてからを比べるとまるで違う。最初1つのことをこなすためにかけていた時間が何倍も、あるいは何十倍にも短縮される。
しかし、それをこなしている自分は少しずつ成長しているから自分ができることに対しての感慨が薄くなる。
ゆっくりとした変化は気づきにくく、それは植物の成長を観察することに近いのかもしれない。
だが、植物は自分の外側にある。だから、例えば1年前や数ヶ月に比べて大きく変化していれば驚くことができる。(それでも気づかないこともあるが)
庭に植えてある木の成長に敏感ではいられないが、感慨を持つことはできる。
それに比べて自分の成長というのは本人の実感が邪魔をして感慨を持つことが難しい。今できることが今の自分にとって、当たり前の実感であるから感動することが難しいのだ。
明らかに1年前に比べて自分が成長しているとしても、そのぶん理想とするもののイメージも進化しているから、何にも追いつけていない絶望が襲ってくる。
絶望とまではいかなくても、道のりの途方のなさに呆れることはある。
できれば、なにか分かりやすい物差しがあるといい。それでも気持ちが高揚することはないかもしれないが、何もないよりはいい。
達成感を感じるためには、ゴールがいる。大きな目標に向かう道中に小さなゴールを設定して達成感を楽しみながら進めば、仕事の結果も出やすいかもしれない。
最終のゴールが常に遠くなり続けることは想定できるが、それはある意味で贅沢なことであるから気にしないでおこう。
せっかく同じことをするなら、より楽しめるように小さなゴールを決めてご褒美なんかも用意して、一人遊びの極みをいきたいものだ。
複雑な簡単なこと
人間はあらゆることに慣れていくから、始めたときには覚束なかったことなんかも、繰り返すうちによそ見をしてでもできるようになる。
慣れることが良いとは言い切れない側面もあるが、慣れないことにはより多くのことをこなしていくことは難しい。
慣れて何も考えずできるということは頭の中に余剰ができるということだ。慣れた頃には同時に違うことができるようになる。
いくつものことを同時にできるようなると、1つの仕事が自動的に、精神的な負荷なくできるようになる。
こうして文章を書くことだってそうだ。誰もがまずはキーボードの操作から覚えなければならない。
キーボードの配列は、人間が打ちやすいことを目指してつくられてないから、少なからず訓練が必要だ。
キーボードで文字を打つことばかりに気をとられていては、書くべきことを忘れてしまうだろう。
忘れないようにメモを残しておいてもいいが、それだけで作業が2倍になるわけだ。つまり、キーボードを無意識に打てることで作業効率は2倍になっている(少しこじつけ感があるが)。
「てにをは」や句読点の打ち方なんかも、ある程度無意識でやれてないと、とてもじゃないが文章なんんて考えられない。
あらゆることがコード化されて、複雑なことを簡単にやっているわけだ。
未来から今を見つめるように
例えば来年の今頃、1年が経ったときに自分がどれくらい成長しているかを考えるのは楽しい。今できないことが当たり前のようにできているはずだ。
だが、その頃には自分の感覚は出来る自分のそれであり、イメージは先を行き、満足感や達成感というものは少ないのだろう。
なにか、自分を喜ばすための工夫ができればいいものだが・・・。
そういった意味では、ブログを書いたり、数字で管理することは有効に働くかもしれない。
自分のための本当のただの日記、完全なる日記を用意することは最も大切なことかもしれない。
それは自分の人生を、その充実度を、自分で感じることに役立つはずだ。
記録されてこそ、意味を感じやすいこともある。
意味を感じた上で振り返る記憶は、良いものであることが多い。
未来から今を見つめるように生きたいものだ。