お金がないのは信用がないからかも|信用を貯金して、富める者へ
信用が貯まってくると使わずにはいられない。
だから、無遅刻無欠席なんかは達成したことがない。学校においても、職場においても。
この感覚わかっていただけるだろうか。
もともと、生真面目な人にはわからないかもしれない。
根が怠惰で、いわゆる「根性」が貧窮している人ならわかるかもしれない。
そもそも、生真面目な人は、サボろうという考えが希薄だから、信用をすり減らすという考えを持たないだろう。
私のように怠惰で、サボり癖のある、アマちゃんは、いかにサボるかを常に考えている。
信用と怠惰は交換される
気まずさとサボりはトレードオフである。
あまりにも、怠惰に過ごしていると、その場での居心地が悪くなる。信用も減ってくる。
学校なんかだと関係ないが、職場となると、やはり皆が力を合わせて、目標に向かっているわけだから、貢献の足りない輩はうとましく思われてしまう。
まれに、それでも許される人タラシもいるが、それはある種の才能で、誰にでもあるものではない。
一般人は、いかにサボりたいという心があっても、その場での信用を最低限保つ努力が必要になる。
信用は貯まるし利率もいい
日々、まじめに生きていると、少しずつ信用が貯まってくる。そう。信用も貯まるのだ。お金と同じように、使わなければ貯まる。
株式を発行して、信用の価値を可視化しなくても、個人にも信用のスコアがある。
分かりやすいのは、クレジットカードである。信用がなければ、そもそもクレジットカードを持てないし、持てても、信用によって限度額が変わる。
その後の、支払い状況によっては、クレジットカードを持てなくなることもあるし、逆にもっと使ってくださいよと、限度額が上がることもある。
信用に関しては、さまざまな尺度で量られるため、ある一面では素晴らしい評価を受けていても、違う一面から見るとまるでダメなんてこともある。
信用を実利的に捉える
信用は貯まるし、増える。
これを理解していないと、なかなか生きづらい。貯まった信用が、自分を次のステージに上げてくれる。
金銭的に困窮している人は、目の前にある小銭でなにができるかを、すぐに考えてしまう。貯めるという発想がないし、思わず貯まってしまうと、すぐに使い道を模索する。
同様に、信用貧乏というのがいる。私は、自分にその気があるので、理解できる。
年を重ねるにつれて、そのような仕組みに気づき、今ではだいぶ信用を貯めておくことができるようになった。
決められた場所に、決められた時間に、行くこと。
仕事の納期を守ること。
人を侮蔑するような発言をしないこと。
これらは、道徳的な意味で守られるよりも、実利を考えたときに、より守られるのかもしれない。
富めための信用貯金、これはもはや義務になる
しかし、根が怠惰にできているし、少しの隙間を見つけてはサボりたいと思うのが、人間である。
(いや、そうでない人も多くいることは知っているが、言いまわしの問題なのでご勘弁)
考えなければいけないのは、いつサボるかである。信用貯金を減らしたくなかったら、人に見られてはいけない。
見えない努力をするような心持ちにして、人が見てないところでサボるのである。
自宅、会社のトイレ、自家用車の中、閉ざされた空間で、己の人間性を開放・解放すればいいのだ。
人間性の追求、心の自由、無の中に現れる閃き、俗世からの解脱、なんか、こんな感じのことを思いながら、必死に自分を肯定して、これを努力・修行として、自らに課せばいい。
もう、こうなると、義務である。今までの怠惰やサボりは義務になった。そして、その義務は、人に見られないからこそ美しい。
どうだろう、これであなたも私も、信用貯金を切り崩すことなく、生きていける。信用は腐らない。信用の利率は高い。
これで、我々は富める者へまっしぐら。