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備忘録としてのweblog

運動とクリエイティビティに関系はあるのか

散歩を趣味にする人は多い。いや多いかな。

散歩を趣味にしている著名人は多い。

人によっては、散歩ではなくて、ランニングだったり筋トレだったりする。

とりあえず、身体を動かすこと自体は推奨されている。

身体を動かすことが推奨されるなんて、当たり前過ぎて、一般の人間は「分かっちゃいるけどね」となる。運動は健康にもいいだろうし、そりゃあ運動不足より運動習慣がある方がいいよね。分かっちゃいるけどね。

運動をするメリットや、運動をするべき理由が当たり前過ぎて、正当過ぎて、なかなか自身の生活においては運動の時間を取り入れることができない。

当たり前過ぎることを、主張されても人は動かない。意外性が必要なのだ。

例えば、散歩をするとお金が貰えるとか。

例えば、ランニングをすると出世するとか。

あるいは、会社から健康手当なるものが支給されて、健康状態をデータで示すと、健康の維持・増進のために、さらなる手当が貰えるだとか。

人が、運動をするには、新しい理由が必要なのだ。子供に勉強しなさいと言っても、「はいはい。聞き飽きましたよ、母上」といなされるのと一緒かもしれない。

クリエイティブな仕事をする人ほど運動の価値を主張する

しかし、クリエイティブな職種の人に運動好きが多いのは確かである。昔の哲学者なんかも散歩好きだったと聞く。村上春樹だって、走ることについて本まで出している。

メンタリストだって、運動の重要性を説いている。やはり、運動とクリエイティビティには関連があるのだろうか。クリエイティブな人ほど運動を愛し、実行するならば、さほどクリエイティブではない凡人ほど、運動に重きを置かないというのは皮肉な話である。

富めるものはさらに富み、貧困は加速する。いや、悲しい。

こうなると、運動に対するモチベーションも上がってくる。なにしろ、運動しなければクリエイティブな職種には着けず、ということは、仕事の希少性が薄いからして、労働の対価としての賃金は低くなり、やはりこれでは、貧困が加速する。

貧困から抜け出すだめには、もしくはより高給を目指すならば、運動をしなければならない。なぜ、運動がクリエイティビティに結びつくのかなど考えず、実行あるのみである。

そして、スポーツウェアを揃え、フルマラソンに参加し、肝心の本業が疎かになり、でもまあいいか、趣味もできたし、仲間もできた。わーいわーい。

いや、これではいかん。そんな未来が見えてしまった。そうゆうことじゃないのです。やはり、目先の利益に飛びつくから貧困は貧困足りえるのであり、より長期的な視点で物事を捉え、たゆまぬ努力を淡々とこなす。これこそが、富むためのメンタリティであろう。

だから、下心を持ってして運動に取り組んでも現実は変化しないのだ。それはそうだ。今から、近所を1時間走ってきて、帰って玄関開けたら、新しい恋人が優しい笑顔で出迎えてれる、なんてことは起こりえない。

佐藤のご飯だって、レンジに入れてチンしなければ食べられないのだから、麗しき美女が恋人として、突如、玄関に登場するなんてことはありえない。現実を見よ。現実を変えたいのなら現実を見よ。未来を見ることと、妄想することは違うのだから。

運動すれば現実が変わる

身体というのは正直なもので、何かをすれば必ず変化がある。良い変化だけでなく、悪い変化も含めて如実に生活が反映される。身体にかける負荷を高めれば、必ず反応がある。その反応を感じる、見ることで自分の行動が現実を変えることを知る。

だから、運動をして自分の身体が変化する経験を通して、社会・世界に対しても自信を持って向き合えるようになる。これは、筋トレやランニングなど負荷の高いトレーニングを行うことで、より実感できるが、散歩でも十分である。

特に、もともと運動の習慣がないような人であれば、1日1時間、あるいは30分散歩するだけで効果は出る。しかし、効果を感じるには、運動する前の自分をしっかりと確認しておく必要がある。

裸体を鏡にさらし、情けない自分をしっかりと見なければならない。これが辛い。しかし、前提を確認しておかなければ、変化を感じることは難しい。そこだよ。そうゆうとこだよ。

データを取ることも大切ですな。いつから、運動を開始したか、週にどれくらい運動したのか、しっかりと、かけた労力を記録することで成果に対して冷静なジャッジを下すことが、できる。

実は、それほど頑張ってないのに、勘違いして「あんなに頑張ったのに全然結果がでない」と言って落ち込む。そして、継続できない。運動して身体を変えるということは時間がかかるものだから、継続しなければ意味がない。

意味がないというか、必要条件を満たせないのでそもそも始まってさえいない。

ところで、私は、時間だけを決めて、おもむろに歩く。ということをしている。大体1時間。1時間の中で、歩いたり走ったりしている。急に全速力で走ったり、昔懐かしブラジル体操的な動きを加えてもいる。おそらくはたから見ると気色が悪いことは間違いがないので、人目がないときにやる。

近くに小学校があって、通学路を歩いたり走ったりするので、お子さんがいない時間帯を選んでいる。不審がられて、怖がらせても、お互いにメリットがないからである。今、これを書いている時間は19時である。そろそろ、お散歩タイムである。

出ようかな。出よう。

帰ってきたら、知らない美女が出迎えてくれるかもしれないね。