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備忘録としてのweblog

ポジティブを被ったネガティブが迫ってくる件に関して

場の空気というのは大切である。何かを成すには、多くの人手が必要なことが多く、集った人には力を発揮してもらわねばならない。意思を統一し、強大な力を1つの目的に集中させなければならない。

そのためにも場の空気・雰囲気は陽性であることが望ましい。

しかし、その集団が、あくまでも目的に対して実直である限りにおいてである。

集団の維持が目的になっている場合

解決しなければいけない課題がある。達成しなければいけない数字がある。など、実利を求める集団には目的があるものだ。

そして、それらを果たすためには、前提としてポジティブであるべきだ。このポジティブは、目的の遂行を目指す。決して、人柄や、雰囲気がポジティブであることを目的にしているわけではない。

しかし、一度決まったルールや、暗黙に了解されたノウハウなどは形骸化しやすい。本来の意義を忘れ、決まりを守ることだけが、尊重されるようになる。

集団はポジティブであらなければならない。の、ポジティブという文言だけに注意が集まり、いつのまにか、集団は維持されることが目的になっていく。

そして、批判が良くないと思いだす。傷つける人は悪だと思いだす。

そもそも、議論や正当な意見が、人を貶める行為だ勘違いしているのだが、そのような場は少なくない。

もちろん逆もある。議論に見せかけた、中傷や野次。真にネガティブな批判だけが行き交う場もある。

しかし、その集団内では、それが正義なのであるという意味において、それら両方は同質である。集団内で最もの悪とされるのは、雰囲気を乱すことになる。

だが当然のこととして、集団は結果を求めなければならない。どこかで誰かが、舵を切らなければならない。時には雰囲気を壊し、正しい方向へ修正・調整することが必要になる。そうでなければ、集団は永遠に解散されることなく、各々家に帰ることもできない。

しかし、何かを言いたいならば、それまで待たなければならない。集団に所属する各々が帰路に着くことを求めるまでは、グッと堪えていなければならない。

方向の間違った集団。だが、雰囲気の良い集団。この集団の結束を乱すには、ポジティブからやられてもよいという決意がいる。それが嫌なら、適正なタイミングをはかるか、言うべき立場の人間が口を開くまでジッと待っていなければならない。

集団の維持が目的になっている場合には、なにが言われるかより、誰が言ったかが重要になってしまう。

集団にとってのネガティブは避けられ、見かけ上のポジティブが数をなして迫ってくるのである。

生贄を決めることで収束する

目的を果たせなかった集団が、最終的にとる行為として、代表的なものがある。それは、生贄を捧げて、事態の収束をはかるというものだ。それほど、珍しいことではない。誰しもが見たことのある風景だと思う。

もはや、それに何の意味があるのかと首をひねる人も少なくないだろう。しかし、世間には、「責任」という便利な言葉があり、これを果たせば人は溜飲を下げるのである。

あらゆることは、人々の溜飲を下げるために存在するのだ。

もし、あなたが(その集団の精神衛生上)不適当な発言をしようものなら、その指摘がどれだけ優れていて、どれだけ正しかったとしても、多数のポジティブからやられるだろう。

仮に、集団にとって不都合な問題が持ち上がれば、あなたは生贄として吊し上げられる。

どれだけ、実質的に貢献を積み重ねていても関係ない。

あなたが、なにをしたか・なにを言ったかなんて誰も覚えていない。集団が覚えているのは、あなたが、以前、その集団の和を乱したという印象だけである。

自分が属する集団がどのような集団なのか、貢献を正確に評価してくれる制度はあるのか、もしくはあなたを正当に評価してくれる人はいるのか。

十分に把握しておかないと、痛い目を見る可能性は高い。