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備忘録としてのweblog

アイデアが無い時どのように始めるべきか|そもそもアイデアはどのように創るのか

空白から立ち上げることが文章を書くときに先ずネックになる。目的がある記事をかくのであれば、下調べや、記事構成などから入るが、日記のような

文章を書くときには、まず頭の中は空っぽだ。

本来的な日記ならば、今日を振り返り記憶をたどることで手がかりはすぐに掴める。あったことを書けばいいのだから簡単だ。

しかし、それなりに意味を持たせた文章を書こうなどと下心がある場合には、そうはいかない。なにかしら、テーマを見つけなければならない。頭は空白なのだから頼りにならない。膨大な記憶に釣り糸を垂らすように、その空白自体に沈まなければならない。

それで、テーマが見つかればしめたものだが、多くの場合、テーマと呼べるほど大そうなものは引っかからない。困ったものである。

かといって、書きたい気持ちはあるのだから、どうにかして始めの一文、いや、一つの単語を拾う。部屋にある本の背表紙から、はたまた、今日交わした会話の一部分からと、まるで給料日前の若い男が部屋の隅々を調べて小銭を探すような感じになる。

決して、ひもじい思いをするいわれはないのだが、人が文章を編もうとするときには、このような気持ちになることは珍しいことではない。

「珍しいことではない」などと言い放ったものの、私が知れる範囲は、もちろん私の頭、あるいは気持ちの部分においてのみなのだから、他人がこのように感じるかはわからない。分からないが、そのように勝手に推論を立て、浅ましくも共感してみるフリをしてみたが、それに何の意味があるかは分からない。

そう。私も今、なんのアイデアもないままに書き綴っているのである。本当になにもない。冒頭の『空白』という単語だけを頼りに、連想ゲームで筆を進めているのである。筆というのもおかしい。私は、キーボードで打っているのだから。

などと、自分の揚げ足を取りながらでしか、進まないこの文書のピリオドをどこで打つのかは甚だ問題である。

・・・。とここまで、書き進めてきて冒頭から読み直してみた。読者も私と同じように読み返してほしい(本当ごめんなさいね。もう偉そうな言い回しするキャラで書いているから、仕方ないのです)。

誰かの文体に似ているなと思うのである。おそらく、私自身が過去に読んだ本の文章に近いニュアンスがあるのである。私はその本の影響を受けながら、ここまで書き進めてきたようだ。自分が新たに綴った文章であるにも関わらず、既視感を覚えている。

私は必死に自分の記憶を探ってみた。これは、何に似ているのだろうと。

私の今日という地点と過去に取り込んだ情婦が、失礼。情報が、発酵し、アルコールになっているのだ。・・・!なるほど、分かりました。

外山滋比古氏の「思考の整理学」です。どうやら、今日の私は思考の整理学的な文体を用いていたのです。

もちろん、この文章がそうであるということではありません。あくまで、私が感じるところであります。こんな未熟な文章ですから、そんな大そうなことは言えません。

あくまで、私の中で何かと何かが結びつき形を成したということです。

これは、私にしか分かりません。申し訳ない。この文章を読んでくれるかもしれない、未だ見ぬあなたに謝っておきます。

申し訳ありませんでした。