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備忘録としてのweblog

母子家庭の子になったのは、父親がいなくなってから8年後だった

母子家庭で育ったのだが、自分が母子家庭という環境の住人だと気づいたのは、18を過ぎた頃だった。

私が母子家庭の子になったのは10歳のときだった。急に父親が帰ってこなくなった。そして、数日後に叔父が訪ねてきて、父親が帰ってこない理由を母親に伝えていた。それを少し遠くから眺めていた。会話の内容は聞こえてこなかった。では、なぜそれが、母親への不幸な通告であったと判るのか。

それは、母親が泣いていたからである。母親は、滅多に泣かない人だった。ドラマや映画を見て、定型的に涙を流すことはあった。しかし、それはポーズのようなものであって、本人は気づいていないが、洗脳された脳の働き・略式化によるシステマチックな涙だった。現実的な事象に対して母親が泣くことはなかった。少なくとも記憶にはない。あったとしても、その際の涙は、人にバレないようにひっそりと流されるものだった。

そのように認識していたから、私は父親が帰ってこないことを悟った。ような気がした。それ以外に母親が泣く理由を想像できなかったからだ。そして、実際に父親は二度と帰ってこなかった。

だから、私はそのときから母子家庭の子供になったはずなのだが、本人の自覚するところにおいて、自分が母子家庭であるとしたことはない。それは、私が母子家庭をいう言葉を知らなかったからだ。

いや、正確に言えば知っていたのかもしれない。だが、いわゆる不幸の象徴として掲げられる母子家庭というイメージと自分の実感が一致しなかったから、自分と母子家庭は関係がないものと思っていた。否、そんなこと当時は頭に浮かびもしなかった。

私はただ、自分が生き延びることにしか頭を使っておらず、自分の可能性を拡げることにしか興味がなかった。実感と瞬間だけに生きていられるほど、慌ただしかったのだと思う。父親がいないということはわざわざ取り上げるほどのトピックではなかったのだ。

とにかく生きることに夢中で、ささいな不幸に苛まれている暇がなかった。今、思えばとても恵まれていたのだ。全てが新鮮で、刺激は動機となり、得ることと奪うことにしか興味がなかったのだ。私はあの頃動物だったのだ。

そんな私でも生きるうちに少しずつ知識が増える。人の物差しも想像できるようになる。そして、18のときに母子家庭の子供になった。

当時、専門学校に通っていた。美容関係の専門学校だった。ある日、配布されたプリントに母子家庭に対する援助制度が記載されていた。それを見たときに、私の家は母子家庭だなと認識した。

その前から、言葉としては認識してしていたはずだ。事実としては知っていた。だけど、そのときは違った。自分が同情される対象、手を差し伸べられるべき対象であることを自覚したのだ。

悲しみと憎悪を覚えた。安い感情だ。私は、成人を前に、自分の資質や可能性が大したものでないことに少しずつ気づき始めていた。だから、その理由を無意識にさがしていたのだ。そこで、都合よく母子家庭というワードが私の前に現れた。当然のごとく、これを利用することにした。

そして、私はこのときから母子家庭の子になった。事実としては、それよりずいぶん前から母子家庭の子供だった。しかし、私が確かに母子家庭の子になったのは18の、あのプリントを配布されたときなのだ。

私は、私のことを同情するようになった。それから、責任の所在は至るところに分散するようになった。それは正しくもあり、社会の理解には欠かせないものであった。

しかし、それは私になにか恩恵を与えることはなかった。むしろ、害であった。正論のようなものがあるにしても、それが踏みにじられることもある、そんな当たり前のことをまだ知らない阿呆だったから、仕方ない。

戦い方も知らずに、自分を慰めることしかできない若者が、正しさだけを身につけても何にもならないのだ。