正月の朝みたいな感じがするから考えてみた|文章を書く理由
今日は正月の朝みたいな感じがするな〜なんて、思っているのだが、それはなんでだろうかなんて考えることはしないでおく。だって今日は正月の朝みたいな感じだから。
じゃあ、何について考えようかななんて思っているのだが、別に考える必要なんかないわけで、なにせ正月の朝なんだから。
それでも、こうして文章を書く際には、なにかしら考えないと、空白を眺めているだけの人になる。それはいくらなんでも、いくら正月の朝だといっても、それはないんじゃないかと思います。
正月の朝だって、テレビをボーッと眺めるくらいのことはしますものね。
文章を書く理由
そもそも、なんで、こうして文章を書いているのか、ということから考えなければいけない。なんでだっけな。確かにあの日、決意を掲げたはずだ。なにかしらの決意を掲げたはずだ。
掲げた決意についても、「あの日」がいつなののかについても、全く思い出せないので、新たに掲げます、決意。
しかし、決意などというものは、何もないところからは生まれないわけでして、今日は正月の朝ばりに何もないわけですから、無理です。
ということで、毎日、文章を書いていたらどうなるか。どんな良いことがあるかについて、考えたいと思います。
悪いことについては考えません。(だって正月の朝だから)
質から量へ(読みも大事)
毎日書いていれば、それなりに上手くなるんじゃね?文章?
少なくとも、書かなければ上手くはならない。というか、分からない。
実際には、書かなくても上手くなると思う。読んでればそれなりに上手くなると思う。それはなぜか。文章に対して価値基準が生まれるからです。
もちろん、その価値基準には、自分というフィルターがかかっておりますので、傾向というのは生まれます。しかし、どんなものにでも、好き嫌いというものは存在していて、全方位から完璧なものなどないのです。
だから、読めば上手くなる、文章。少なくとも感性ができる。文章に対して、感性ができるって凄いと思うんですよ。
批評家になるだけではいかん
しかし、理屈は分かっても実際に自分でやってみると難しいということはある。往々にしてある。
実際に書いてみて、下手くそな自分の文章を眺めて、落ち込む。というのは、多く読んできた人こそ陥いることかもしれない。
でも、分かる。それが、駄文であることが分かる。だから、書き直せる。次に活かせる。読み、書くことで、確かに文章は上手くなる。
だから、書くこと自体にはメリットがある。
次に考えないといけないのは、文章が上手くなったからって良いことあるの?ってことである。
生産しなきゃいかん
特にこれからの時代、我々は、より生産者であらねばならない。AI時代などと声高に世間が叫んでいる。多くの仕事は失われるとされている。そして新たな雇用の創出。
今まで、遊びとされていたような事柄が仕事として認定される。物質の生産コストが下がれば、より広告や広告のためのコンテンツにリソースが注がれる。
それは、当たり前だ。
そして、我々が生産しなければならないのは、明らかにコンテンツなのである。コンテンツの多くは文章で作られる。多くのコンテンツには、少なからず文章が加わる。写真にも、動画にも、文章が添えられる。
ほら、文章上手くなった方がいいでしょ?
現状を抜け出すための武器になる
そんな未来の話をしなくても(そんな未来の話でもないのだが)、現状の職務において、文章力が求められる場面ってない?
あるよね?
実際には、文章力とか、コミュニケーションが必要とされる職務に割り振られるには、実能力より、それを間接的に保証する「学歴」の方に重きが置かれているようですが。
まあ、それはともかく、文章書けたり、ちゃんと話せたりするだけで高給取りへの道が開かれるわけです。
ほらほら、文章上手くなったら良いことあるじゃん。
でも、すでに評価が決定されている身の上の人は、ただ文章力をつけてもダメ。
横道・抜け道を探さないといけない。
最後に
正月気分で書き連ねていたら、随分遠くまで来てしまいました。
これから私は、文章を生産して対価を得るため労働します。
そう、今日は正月ではないので、仕事があるのです。
でも、今日は日曜日か。皆さまお休みですか?