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備忘録としてのweblog

【子供っぽい絵とは】距離感のない絵を描く人は論理が破綻している人なのだろうか

子供の絵には子供の絵的な特徴がある。

「子供の絵みたい」という感想が一般的に通用するのは、子供の絵的な「何か」を人々が無意識に共有しているからだと思う。

その子供の絵らしさを象徴する要素の一つが「距離感」なのではないかと私は思っている。

20代半ばの知り合いがいるのだが、絵の距離感が狂っている。

その知り合いが描く絵は、まさに子供の絵のようで笑いを誘う。

おそらく子供が描いた子供らしい絵を見て笑う人は少ないと思うのだが、大人が描いた子供っぽい絵は多くの人の笑いを誘う。

やはり我々は文脈の中に生きているのだ。その象徴が大人が描いた子供っぽい絵なのだ。

1つの時刻と1つの視点

子供の絵には時間的な整合性がない。

どういうことかというと子供の絵には、ある時間にある角度から見たときには、あり得ない情報が一つの絵の中におさまっているのである。

これでも分かりにくいだろうか。

例えば、馬の絵を描いたとして、その絵の中には「ある一場面の馬」が描かれているのが普通である。

馬を側面から描いた場合、奥の脚は手前の側面の脚より奥にあることが慣例である。

しかし、子供の絵では奥にあるはずの遠い脚が、より近い手前の脚と同等の扱いで描かれる。

ときには、尻から脚が生えていることもある。

このように、1つの時刻に1人の人間の視点からでは捉えきれない情報を同時に存在させることで、絵に子供らしさが醸し出る。

これを意図的に利用した芸術表現があることは百も承知だが、そのような崇高で尊い絵の話は今はしていないから、あしからず。

絵と記憶

前述の「絵の距離感が狂っている知り合い」に、飛行機の絵を描いてもらったことがある。

奥の翼が手前の翼より大きく、そもそも奥の翼は見えないのではないだろうかという角度で描かれている。

もともと絵の距離感が狂っている人間に記憶を頼りに描かせるとこうゆうことが起こる。

被写体が目の前にあるときよりもひどい結果になる。

記憶というのは曖昧なものであるから、これを「飛行機の絵」としてではなく「飛行機に関する記憶」とかにすれば分かる。

しかし、そうではないから笑ってしまう。

絵は写真ではないから、瞬間を誠実に切り取ることが唯一の価値ではない。

だが、誠実に瞬間を切り取ろうとした結果として、距離感の狂っている絵を描かれると、やはりそれは「失敗」と評価せざるを得ない。

私はそういった絵が好きだが、「好き」と「評価」は分けなければならない。

絵の整合性と論理

絵は1つの表現形態である。

絵を整合性のある表現にするには、ある時刻という瞬間に成立し得る状況を描かなければならない。

もちろん技術の問題はあるが、絵に整合性を持たせるのは基本的な論理力かもしれない。

しかし、絵の距離感が狂っている人が論理的に破綻しているかというと、そうとも限らないわけで、ここには複雑な人間の認知機能が関わっているのかもしれない。

ただ絵に対してモチベーションがないだけかもしれないが・・・。