非生産的な引きこもりとしてドライブばかりしている
“引きこもる”という表現があるが、これに憧れる。
生産的な人は必ず引きこもる。引きこもらなければ何も作れない。だから引きこもることに憧れる。
そして、引きこもることは簡単ではないと感じる。
すぐに外に出たくなってしまう。天気の良い日に早起きなんかするとフラフラと外に出てしまう。
すぐに車に乗り、ガソリンを減らし、無為に時間を消費してしまう。
2時間や3時間は、あっという間に過ぎる。
そんな風に時間を無駄に費やさずに、生産的なことをしたいなと思う。自然と引きこもれる人は生産の才能があると思う。
実はずっと屋内にいた
普段から引きこもることに対して憧れを募らせているから、私は自分のことをアクティブなアウトドア派だと思っていた。
なんとなくそんな風に自分のことを評価していた。
あくまでも、なんとなく。
引きこもりではないから、インドアではない、ゆえに我はアウトドアなアクティブ野郎、くらいの簡易な自己評価である。
だが、しかし。
今日なんとなく気づいてしまった。
車に乗っているということは必ずしも外出ではない。
いや、外出ではあるのだが、車の中は「イン・ドア」なのである。そして車から出なければ、私は車という「移動式の小部屋」にいるインドア野郎なのである。
途中でコンビニに寄っても、車からコンビニはほぼドアトゥードアである。
なんなら、家の玄関から車もドアトゥードアである。
はなれのある家に住む人なら日常的に歩く距離である。
車という移動式の小部屋を挟んで、家・コンビニと、はなれからはなれへ移動しているだけである。
これでは、屋内である。常に屋内である。ずっと屋内である。
私は無駄にガソリンを減らし、時間を消費し、屋内をぐるぐるしていただけなのである。
悲しい。
しかも、運転中、私の手足は移動のために使われ、なにも生産的なことができない。
移動式の小部屋に捕らわれた哀れな囚人である。
できることといえば、歌うことくらい。
手足の自由を奪われた歌うだけの存在、それが私。
私の手足の自由を奪ったのは、移動式の小部屋。
だけど、それを選んだのは私自身。
私は、自分がインドア派の引きこもりでありながらも、非生産的野郎であることに気づいて戦慄している。