ブログを書くことしかすることがないのにブログに書くことがない
ブログを書くことしかすることがない。まさかこんな日がやってくるとは思ってもいなかった。ブログを書くしかすることがないなんて。
さっき、猫に餌をやった。それからコーヒーを入れた。
さて、と・・・、ブログを書いている。
他にすることがないのだ。だからブログを書いている。
かといって、何を書こうかと思案しているのだが、書くこともない。ブログを書くしかすることがないのに、ブログに書くこともない。
それで、そのまま「ブログに書くことがない」とブログに書いている。困った野郎である。
では、日記でも書きますか。ブログと言えば日記じゃないか。昨今のブログで稼ぐブームを尻目に、ここに堂々と日記を書いてやろうか。
なんてアグレッシブなんだ、俺。
でも俺は無駄にサービス精神があるから、日記をそのまま書くなんてことは苦手だ。苦手だけどこうして書いている。
日記は日本文学の源流
そうそう、この前読んだ本に日記のことが書いてあった。なんでも日記というのは、日本文学の源流にあるのだそうで、日記風の作品の多いこと、これが日本的な表現の基盤にあるということらしい。
反対にヨーロッパは、やはり構築的というか、その舞台設定や形式というものがしっかりと体型づけられていて、日記風の作品というのは少ないらしい。
そして、日本の私小説というのは、ある意味で日本的作品論の1つの回答であるということらしい。
らしい、らしいとばかり言っているが、まあそれはしょうがない。仕入れたばかりの知識だ。まだ血肉となっていないのだ。それでも、なるほどな〜と思いながら、その本を読んでいたのだが、やはり夏目漱石というのは、そういう意味でも偉大らしい。
そういう意味というのは、作品論的にという意味なのだが、漱石ほど、当時の日本で小説の形式を意識して使いこなしていたのものはいなかったという。それが彼の特徴であり、というか形式を日本文学に取り入れ日本語の表現の幅を広げたということが漱石の偉大な達成なのだ。
みたいなことを、昔どこかで聞いたような、あるいは思ったような気がするが、朧げであるから断言はできない。
まあ、つまり今日は日記を書くことにしたんだが、日記というのはそもそも日本人によく合った表現であることは違いないらしい。ただし、その先には漱石がいる。ということだ。
だが私は漱石でないから、今日は日記を書く。断じて日記を書く。
日記というのも、そこに批評性や工夫・技術があれば作品的になる。あとはwebに合った施策をすればとりあえずブログっぽくなるだろう。
というか、日記さえ面白く書けなくてどうするんだ。日記は日本人的表現の根底にあるもので、まずはそこから始めることがセオリーなのだよ。
それから、あらゆる技術を身につけ2人称や3人称を操り、舞台の設定、ストーリーの構築をし、広大な作品を作る。それが良い。少しずつ始めよう、俺。
いや、俺。別に小説家になるわけじゃないけどね。
ブログ書いてるだけなんだけどね。それも、他にすることがないからブログ書いているだけなんだけどね。
しかも、書くことがなくて、そんで、こうして書く前の心構えをつらつらとしてるわけで、これでは漱石を目指すどころか、ただの日記でさえ書けないよ。
とかなんとか言ってるうちに、そこそこの文量になってきたから閉じようかな。
ここまで、身勝手な、いわゆるwebのゴミを生産して、平気でいられるほど、大人になってしまった。
わがはいはゴミ溜めである。ちりである。塵芥である。チェリーアクターである。