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備忘録としてのweblog

無害そうな男が1番得をする|有害な男ほど無害な男に学ぶべし

目先の欲望に負けていてはいけない。

チャンスがあるからといって飛び込んでばかりではいけない。

たまには、長い目で見なければいけない。

無害な男を見るたびに、いつもそう思い知らされる。

無害な男の周りには、いつも人がいる。

男も女も、上司も部下も。

無害な男の周りは居心地がいい。私は陽だまりを求める猫のように無害な男の近くに行く。きっと、彼も彼女もそんな暖かさを無害な男に求めている。

無害な男と有害な男

なぜ、無害な男がいるかというと、相対する有害な男がいるからである。

人は生きている限り、決して無害ではいられないのだけど、目に余る有害な男がいるから、無害そうな男が目立つ。

無害が何を指すかというと、多くの場合、性的な攻撃性についてであると思う。

奥手な男、浮気をしない男、人が嫌がることをしない男、こうした特性を持ち、なおかつ性的な話題が表に出てこない男。これが無害な男である。

そして無害な男について揶揄する人たちがいる。有害な男や有害な男にはまるような女たちである。

だが、それは甘いな〜と思う。洞察が甘い。

無害な男は、世間一般に思われているほど無害ではない。

無害な男は、したたかにチャンスを狙っている。それを私は知っている。今まで何度も見てきました。

無害な男は、いずれ来るチャンスをジッと待っている。余計なことはしない。

確実に獲物を仕止めるためにタイミングを計り、体力を温存する。(この場合の体力とは、好感度・信頼感である。好感度・信頼感は自由の幅を広げる)

完全に肉食動物の挙動である。ライオンである。

それに比べて、我々のような無害でない男は猿である。猿感を撒き散らしながら、大事な体力(好感度・信頼感)をすり減らし、肝心のところでチャンスを掴めないでいる。

無害な男は自慢しない

いやいや、俺は上手くやっているよ。という人もいるだろう。私もそのように思っていたことがある。

有害な男であっても、チャンスはあるし、勝率は低くても全く勝てないわけではない。

だが、だが、だが、無害な男は言わない。

成功を、成果を、実績を見せびらかさない。

ちょっとそのへんの無害そうな男と仲良くなってごらんなさい。そして、かれの戦果を聞いてごらんなさい。驚くだろう。

圧倒的に負けているかもしれない。

我々は、チャンスを逃しているのである。もう少し、無害な男のようにライオンたれば、猿でなければ、もっと良いことがあるのである。

無害な男の優位性

単純に数の話ではない。継続性である。無害な男は親切だから、友達も多い。なにも、性的な関係を持つことだけが人間関係ではない。

当たり前だ、当たり前です。

無害な男と有害な男の差は、年齢を重ねるほどに開いてくる。

有害な男が、都度切り離してきた人脈を、無害な男は保ち続けたままである。ネットワーク効果というのは現代ではさらに強い。

有害な男が結果的に狭めてしまった世界と反して、無害な男の世界は広い。そして広がり続ける。

その結果なにがおこるか、言わずもがなですね。

人が人を連れてくる。なんなら仕事も入ってくる。新しい出会いも多くなる。

可能性である。

無害な男が持っているのは、可能性である。可能性・選択肢が豊かな人間は焦りがない。だから、余裕が生まれる。

それが、さらに無害な男の無害度を高める。無害も高まればガンジーである。ガンジーが女にモテなかったということはない、モテた。

ガンジーの次は、仏である。神である。

仏や神がモテないか?

いやいや、世界中で大人気。

無害な男は時間を追うごとに進化する。それは複利の力。時間を味方につけた者の優位性。これが、無害な男の正体である。

有害な男性諸氏は、ぜひ無害な男を見習い、また目指して欲しいものである。

有害な男だけが持っているもの

有害な男が持っているもの。しかも無害な男になくて有害な男にだけあるもの。

それは、ドラマである。ドラマは悲劇の中にある。

しかし、ドラマの主役は不幸なものである。その不幸を楽しむのは他者である。他者が楽しめるように、不幸を加工するのはまた違う他者である。

だが、中には自らの不幸を自ら加工して、商品として昇華させる者もいる。

小説家や音楽家、映画監督に俳優、などなど。

不幸はアートにならなければいけない。有害な男が、有害なまま人生を豊かにするには、自身の不幸に浸るか、それをアートに昇華させるかしかない。

そうでなければ、有害であるポテンシャルが失われたあと、訪れる孤独に身を寄せるか、手に入るという理由だけで掴んだ小さな幸せに満足するかしかない。

最後に

無害な男について書いてきましたが、これは私が観測した範囲でのことであり、有能な無害な男についての見解です。世間には無害なだけの男というのもおるようですが、そのような方に関しては今回扱っておりません。また、有害な男に関する見解に関しても、自身の観測範囲でのことであり、もっと言えば、これはほぼ私自身のことであります。