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備忘録としてのweblog

タイトルの付け方について|設定するのか抽出するのか

タイトルを設定してから書かれる文章は、そのタイトルに応えるかたちで進む。

逆に、文章が先にある場合は、タイトルは抽出される。

webで読まれるためには、先にタイトルを設定する方がいい。

webを訪れる人の大半は検索をするからだ。

検索とは問いであることが多く、問いはキーワードになり、そのキーワードを含む情報が検索結果として返される。

検索結果は、問いに対する答えであり、問いをタイトルとして設定することができていれば、それに応えることで検索者の求める答えを返すことができる。

webに求められている役割は、問いに対する貢献がほぼで、実際にweb上はそのように最適化され続けている。

他者のニーズ有りきで書く場合

書くという能動的な行為も、応える(答える)という前提がある場合と、書かずにはいられないという欲動で書く場合では異なるものになる。

それが、端的にあらわれるのが、タイトルとそれに続く文章(内容)の関係性になる。

ニーズから、あるいは自身の経験を有益にシェアすることを目的として書く場合は、タイトルが果たす役割は大きい。それだけでなく、見出しや選ぶ単語も検索エンジンに最適化させなければならない。

そうでないと、当初の目的が果たせない。目的とは、読者の問いに応えることである。そしてweb上で出会うためには発見してもらわなければならない。

また、設定されるタイトルは、(見込み)読者のボキャブラリーの範囲でないといけない。

違う言い方をすれば、読者が立てられる問いにしか応えることができない。

webでは、それも検索を頼りにしているときは、顕在化したニーズだけが入り口になる。

新しい問い

問いを立てることが最も難しい。問題の創出はクリエイティブな作業だ。改善をするには改善点を発見することがスタートになる。

まだ多くの人には認識されていないこと、もしくは個人的な課題を題材にする場合、書くことと考えることが同時に進む。

同時ではないにしても、書くために考える時間は、すでにある情報を編集するときよりは多くなる。思索自体が答えへの道であるからには、その道も書かれないといけない。

それは、人によっては退屈であるし、求めていないものでもある。求めること自体ができないといった方が正しいだろう。

このような文章を書いたときは、タイトルは抽出されることになる。既存の問いに応えるようには書かれていないから、問い自体を創る必要がある。

それが、一般的なワードに落とし込めて、なおかつ普遍的な問いへの新しい答えとして機能する場合、それは多くの人と出会うことになる。

だが、それはとても難しいし、そこに至るまでは、人に発見されないテキストを多量に産むことになるだろう。

新しい問いを一般化できるまでには、そうでない問いを積み重ねる必要がある。そして、それらの多くはwebの仕組みに向いていない。少なくとも、検索エンジンに頼る多くの人から発見されることは難しい。

タイトルと内容の乖離

ここまで書いたことは、タイトルと内容に乖離がないことを前提にしている。実際には、タイトルと内容が一致していないことも、よくある。

それは、読者の時間を無駄に奪うから憎まれることになる。問いに応えそうなタイトルをつけたからには問いに答えなければならないし、内容から出来上がったのならば、抽象的なタイトルを設定した方が親切かもしれない。

書くという贅沢

自ら立てた問いに対して、自らが試行錯誤するという種類の文章もある。というか、それは書くという行為において最も有益なことであると思う。

書きながら知るというか、考えるというか、そのような贅沢をした場合には、付けられるタイトルは、内容から抽出され、抽象化されたものになる。