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備忘録としてのweblog

えらい店長の魅力|簡単に理解するには多すぎる活動〜それがえらい店長

えらい店長という、偉い人がいるのだが、ご存知だろうか。

えらい店長が、何者かというのを説明するのは、とても難しく、それでも分かりやすいところでいうとYouTuberである。

しかし、YouTuberという呼称でくくるには、えらい店長は偉すぎる。

えらい店長は、その名の通り、店長であり、同時に経営者でもあり、投資家でもあり、ブログも書いているからブロガーかもしれないし、経済アナリストかもしれないし、宗教研究家でもあるし、生活保護の実態を観察する社会学者でもある。

まだまだ書ききれない呼称・活動履歴がある。バイタリティである。えらい店長はバイタリティそのものである。

えらい店長は、えらい店長である

えらい店長が何者なのか?という問いには、「えらい店長はえらい店長である」としか言いようがない。

まず、そのような問い、つまり個人を1つの呼称、また安易なラベリングで仕分けしようとする近代的価値観から脱しなければ、えらい店長を理解することは難しいかもしれない。

えらい店長の活動履歴などについては、各々が興味を持てる範囲で調査してもらうとして、ここから先は、私がえらい店長に関して常位日頃から感じていた『引っかかり』『気がかり』のようなものを解消していきたい。

それは、「えらい店長、誰かに似ているな〜」という外見に関するものであり、えらい店長の偉さに比べれば他愛のないものである。

いや、「愚」そのものである。

ただ先ほど、私の生活において「えらい店長、誰かに似てるな〜、誰だろな〜」という問いを、問題を、解消するヒントが現れたので書かずにはいられない。

また、いずれ今よりもさらに偉くなるであろう『えらい店長』に対する考察を、1個人がweb上に残すことは有意義なことである、と思う(ある個人への全体からの理解を、概ね正しく成立させるのは、誤解さえ含んだ情報の集積なのだ 、・・・その1つ1つが塵のようなものであったとしても。

村上春樹は言った。「それぞれの理解には、見当違いだなと感じる部分もありながら、全体としては概ね正しい理解に向かうものです」的なことを。

えらい店長は内田樹のことを好きだと言っていたから、内田樹の愛する村上春樹が言ったことに縋る私の行為に関しては寛容でいてくれるはずだ、という複雑な関係性に頼る)。

「私」という地点から見たえらい店長

もうシンプルに言ってしまおう。

えらい店長とくるりの岸田氏が似ているな〜と、思ったのである。

youtu.be

(ふとしたタイミングで私の朝に現れた初期のくるり

ただそれだけのことである。aikoのリフレインが聴こえるほどに、ただそれだけのことである。

ところで、私がえらい店長のことを知ったのは、どこかから回ってきた、えらい店長のブログ記事である。

えらいてんちょうの雑記

えらい店長のブログは黒を基調としたダーティーな感じで、内容も批評性があり、切り口は鋭すぎる。そのブログのイメージから私は、「屈強で髭をこしらえた良い感じに汚い風の男」としてえらい店長をイメージした。

ところが、ところが、またまたどこかから回ってきたえらい店長のYouTubeを鑑賞したところ、実際のえらい店長は、私のイメージする「屈強で髭をこしらえた良い感じに汚い風の男」とは似ても似つかぬような、「爽やかでメガネをかけた知的な毒を顔面から漂わす男」だったのである。

youtu.be

(アグレッシブである)

こうゆーギャップです。魅力ってーのは、こうゆーギャップです。

そして、ユーモアもある。

そのユーモアは分かりやすい面白さ・楽しさの類いではなく、企画力・発想力の類い。それを産む豊かな教養、的確でいて辛辣な意見を浴びせる話術、隠しきれない知性と毒。(こんなに、えらい店長のことを褒めている私は、えらい店長に抱かれたいのかもしれない)

これほどに魅力的な武器を持ちながら、飄々とした佇まい、一見大人しそうな容姿、その感じ、そのバランスが、くるり岸田氏との共通点。という風に私の頭の中で繋がった。

ただ、両者のことを深く知る人からすれば、この見解は的外れかもしれない。似てるのメガネだけでしょって言われるかもしれない。

それでも、「今日の私」という地点から観察するえらい店長は、そのような感じであり、私が感じたという事自体は事実なのである。

ここで大事なのは、実際の真実・事実がどうであるかということよりも、「私」という観察地点から見るとえらい店長は、そのように見えるということである。

違う人が見れば、また違うえらい店長がいる。そうした情報の集積を俯瞰で見たときに初めて、えらい店長を、全体が概ね正しく理解しうるのである。

ただそれだけのことです。ただそれだけの話です。