変な顔にならないために読書をする
毎日あなたは何を見つめているだろうか。1日の中で最も長い時間あなたが見つめているものはなんだろうか。
人の顔は歳月を重ねるほど、その人生を反映していく。仮にあなたが毎日、猫を愛でているのなら、あなたの顔は「いかにも猫を愛でてそうな顔」になる(多分)。
人生が好転しそうなことを選ぶ
本を読んでいますか?エロ動画やワイドショーばかり見ていませんか?そんな生活を何年も続けたら、そんな顔になりますよ!
いや、清貧な顔をした、もしくは精悍な顔をした人が、実は裏では卑猥で世俗的な趣味に興じているということもある。
人は見た目では分からない。
だが、もともと崩れた生活を送っている人が、さらに厭らしい顔になるとき、だいたい女や酒にギャンブル、タバコに、ゲーム、これらが背後にある。
そこに因果はないかもしれない。むしろゲームなんかは良い効果の方が高いかもしれない。
だが、やはり確率の問題はある。
我々はかつてないほど統計の時代に生きているのだから、できるだけ人生が好転しそうなことを選んで生きていこうじゃないか。
娯楽としての読書はやめる
私はある時期から本を読むことを義務化した。もともと本を読むのは好きだった。しかし、その傾向をより強めることにした。
なぜか?
変な顔になりたくなかったからである。
まったくもって、非科学的な判断ではあるが、変な顔にならないために本を読むことにしたのだ。
そして読む本に関しても意識的に選別を行うことにした。
もともとは小説を読むのが好きだった。伊坂幸太郎や中村文則の小説を愛好していた。スリリングで過激でなおかつ伏線の効いたミステリー。
良くできた娯楽小説を読むことは人生のハイライトと言えるだろう。
しかし、やはり娯楽は娯楽なのである。ハリウッド映画やテレビドラマを観覧することと大差ない。
脳には文字を読んだとき特有の刺激はいくだろうが、それでは変な顔になる。
なぜならそれは娯楽だからである。
これから小説や脚本を書こうと思っている人なら良いかもしれない。彼らが娯楽小説を読むとき、それは消費される娯楽ではなく、研究対象になるからだ。
だが、我々(というか私のような怠惰な人間)が、娯楽小説を読むとき、それはどうしたって消費活動であり、いくら本を読んでいるといったって、変な顔対策にはならないのである。
そんな日々を何年、何十年と過ごしても、変な顔への階段を転がり続けるだけである。
だから、せめて古典。小説を読むなら古典。せめて時の洗礼を受けた作品。
村上春樹(ノルウェイの森の永沢さん)的に言うならそうゆうことになる。
だが、スコット・フィッツジェラルドくらい立派な作家の作品なら読んでもかまわない(同じく永沢さん)。
今読むべきものを読もう
それで、カフカやドストエフスキー辺りを読んだ。定番である。別に良い。そんなとこで個性を発揮しようとは思わない。
人間の個性は身体性にこそあるのだ(養老孟司の本も好きです)。
神話の体系を学んだ。ギリシヤ文学やユークリッドやピタゴラスについて調べ、次にシェイクスピアを読むという訳の分からない探検をしながら日々を過ごした。
内田樹の導きによりマルクスを読み、資本の原理を理解したつもりになり、次の日には「サンドイッチ教本」というとても現世的に役立ちそうな実用本を読んでいるという迷走ぶり。
体系的な学問としてはまるで価値のない雑多なガラクタが頭の中に、構築されていった。
あまりにも現代から離れてしまい、気づいたら時代の流れから完全に置き去りにされた。
それで急いで現代を把握するために様々な本を手に取った。
今の時代は数学や科学、コンピューティングに重きが置かれていることを知ったときには、もう手遅れで、私は完全に役に立たない文系の人になっていた。
顔はまだ変にはなっていなかったが、完全な役立たずだった。
こんなはずではなかった。顔が変でも役立つ人でいたかった。
これから、顔面のために読書に励もうという人には、数学や科学、社会科学についての本をおすすめします。
新しい本が良いとは限らないとよく言われますが、現代はとても展開が早いので、なるべく新しい本を読みましょう。
そうすれば、役に立つ人材でありながら、顔も変じゃないというナイスバランスを保てるはずです。
私に関していえば、まずは実務的な能力を磨くためにお勉強をします。本なんて読んでる場合じゃありません。