webで読まれるためには貢献の意識が要る(ということを壮大に脱線して語る)
webで読まれるには、「貢献」の意識が欠かせない。検索をするユーザーの心理を、キーワードとそれに返すGoogleの答えを参照しながら想像しなければならない。
そして参照した情報を今あるものよりも、分かりやすく、より網羅的に整えることで新たな価値を創る。
それがユーザビリティを高め、情報の精度を上げる。Googleというプラットフォーム上にある情報はそのようにしてアップデートされていく。
この一連の流れに沿うことで、書き手は読み手に出会うことができる。
インターネットを発展させたオープンソースの理念はやはりweb上でも機能して、だからこそ個々は競争を強いられる。
もちろん、Googleにも死角はある。その死角を突いた賢い営利主義者が、webを席巻することもある。
だが、いつかは駆逐される。
アルゴリズムという神の意志は常にアップデートされ、不当に出た杭は打たれる。
それでも、Googleに対する不平不満は常にある。だが、それはより良い方向への発展を促し、最適解へのヒントになる。
常に完璧であることが不可能であることを我々は知っている。
歴史が証明した数々の事例、それを参照することのできる時代に生きる我々ならではの見識だ。
だからこそ、「完璧ではなく最適解を求める」という意思が世界を進める、ということに意義を唱えるものは少ない。
(異議を唱える少数派の原理主義者が、一様にテロリストとして捉えられてしまうことは次の時代の課題だろう)
既存のインフラと新たなインフラ
ユーザーを検索する人と定義したとき、Googleを利用する人にかかるコストはない。無料で情報にアクセスすることとができる。
一般的なユーザーは、なぜ無料で検索できるかを知らない。だからこそ、Googleアドセンスさえ不当な広告だと判断する(人もいる)。
Googleもやはり企業であり、収益を産まなければ存続しえない。
しかし、ユーザーはそう思っていない。
もはや、Google検索は(ほとんど世界中の)人々の社会インフラであるから、例えば水道や電気のような、「人が生存する上で欠かせないもの」と同様に扱われなければならないと思っている人がいる。
いや、確かにそうである。インターネットとGoogleなくして今の世界は存在しないだろう。
『GAFA』と呼ばれる4大企業が世界に与えた影響は、そのまま現在の世界の有り様のほとんどを決定づけた。
しかし、それは既存の「国」「公共性」「中央管理」という価値観の外側からアプローチしたからこそ、なしえたのだ。
だからこそ、我々は受益者負担という新しく、なおかつ古のシステムを受け入れる他ない。ビットコインの登場はそれを示している。
人という簡易さと安易さ
ビットコインは中央に管理者がいない。システム自体が秩序を保つ。
システムに関わる人の私利私欲が、システムを稼働させる。
稼働させ、なおかつ安全性を保証する。いわゆる「労働」がシステム内に取り込まれた形で行われる。
そもそも、抽象的な「通過・貨幣」というシステムの中に、抽象的に労働が組み込まれる。労働の具体性は電気という実質に変換され、それが抽象的な信頼を担保する。
そして、我々は新たな価値移動を為し得るわけだが、それがなかなか進まない。人という具体性がシステム的に稼働するための「言葉」が、複雑すぎる。
言葉が複雑すぎるゆえ、安易に簡易を求める人の物質性が実質を歪める。
机上の空論とかすめ取るだけの人たち
資本の流れを概念的に操作することで、我々の社会は発展してきた。それは物質の流動を定め、価値の移動に一定性を確保した。
その流れに乗ることで、富める者はさらに富み、貧しさは加速することになった。
テクノロジーの発展は、情報を拡散し、流れに乗る者を増やした。
しかし、その流れに新たに乗る者が、その構造を理解しているか、といえばそうではない。
後から参加した人々は、流れへの関与の仕方だけを知り、かすめ取れる価値の存在に気づいたにすぎない。
テクノロジーが発展し、広く情報が流布されても、それで世界の有り様が正されるということはない。これは、今の時代が発見した、新たな真実と言えるだろう。
予想・想像できていたこととはいえ、実際に体験することは、机上で空論を持て余すこととは、やはり、大きく違う。
当然だ。
終わります
話が脱線しすぎて、結局なにを言いたいか分からなくなってしまった。
webで読まれるための「貢献」について語るつもりだったのが、話が大きくなり過ぎてしまった。
このように、分かりにくい言葉を羅列するからこそ、分かりやすい言葉で喋る功利的な資本主義者が情報の優位性を維持するのである。
その、参考事例にでもなれば・・・。
(世界を正すには「貢献」の意識だけが、要る。
例え、嘘をついてでも真実を簡易に伝えるすべを追求しなくてはならない。
事実ではないが、真実である『作り話』を拵える人と作品が必要だ。
それは、例えば『文学』に在る。少なくとも、今まではそうだった。
現在では、落合陽一氏などが、重大な真実をアートの文脈に乗せて語っている。
しかし、そこにある理論を、各々が完全に理解するということは儚い欲求に終わるだろう。
それでも、不完全な理解を正しい直感に昇華する施策は打たれなければならない。
やはり最適解を求めるという姿勢が、今世に必要とされるエンジニアリングなのだ。webに文章をアップロードすることでさえ、その責務の一端を担っているのだ・・・、という話し)