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備忘録としてのweblog

本は多く読むべきか、深く何度も読むべきか

次から次からへと、多くの本を読むことと、一冊の本を何度も読むのは、どちらがいいのだろう。もちろん、両立できればいいのだけど、時間は限られている。

人にもよるだろうが、インスピレーションを 得るには、深い読書が有効なのではないかと思う。一冊の本を何度も読む方が、閃きを得やすいと感じる。

閃きの予感と届かなさ

会話の最中や、文章を書いているときに、自然と引用できる引き出しがあるといいなと思う。今まで読んできた多くの本や、得た情報から、その瞬間に最も作用する言葉を正確に的確に選べれば素晴らしい。

既視感のようなもの。届きそうで届かない感覚。今まで触れてきたモノの中に、その瞬間と結びつく何かが、自分の中にある。だけど、上手く取り出せない。このような体験を、最近は、多くする。

閃きのかけらが、チラッと姿を現しては消え、もどかしさがつのる。もっと、しっかりと記憶され、整理された記憶があれば、何かが生まれるはずだ。

その予感に苛まれることが多い。

繰り返し通り抜けるべきモノ

日々のニュースや、新しい科学的な知見などは、流すように処理しなければならない。その時々に必要なモノだけを選び、自分の判断の拠り所にしなければならない。

それよりも、もっと普遍的なもの。小説や戯曲、神話など、人の感情・行いの原理を記述したような作品に関しては、数よりも時間、長く深く回数を重ね、自分の血肉にするほどに読み込むべきなのだろう。

自身の中を流れる言葉に、一定の傾向を持たせ、統制を保ち、いつでも的確に使えるように管理していなければならない。それには、数が多過ぎてはだめだ。自分が扱える程度の分量の文学を、選び、繰り返し通過せねばならない。

どの文学を選ぶかという感性を育むためには、まず量をこなす必要があるかもしれない。だが、一定の量を読破したあとは、刺激を求めるばかりではいけないのだろう。

平凡な幸せというのは緩慢に進む不幸なのか

人生の早い段階で、読み込むべき作品に出会えた人は幸せかもしれない。育った環境や、本人の特性によって、読むべき本は変わるはずだ。より傾向の強い人間ほど、それを手にするのは早い。

そうでない人間は、定まらない感性を持て余し、不当に迷い続ける。一度社会に出てしまえば、文学を愛するには、忙しすぎる。だからこそ、早い段階での出会いが有効なのだが、温い幸せに浸るほど、その出会いは遠くなる。

こうなると、平凡な幸せというのは、緩慢に進む不幸そのものだとも思える。だが、仕方がない。過ぎたことは、変えられない。ここまで、生きてきた自分が、読むべきモノを探すほかない。

私に関していえば、おそらくカフカドストエフスキーを読み直すタイミングが来たのだと思う。だが、スタンダールの小説に登場する、弱い男への共感も強い。

あなたが読むべき本は、なんだろうか。もう出会っているのか、これから、出会うのか。そのような事柄について、語れる友人が欲しいな、などと思う。

冬の入り口にて。