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備忘録としてのweblog

ブログは挨拶から始めるべきか|ブロガーの〇〇です

ブログの冒頭に挨拶をするべきなのか。

「こんにちは。ブロガーの〇〇です」的なやつ。

考えたいと思う。

私もこうして、ブログを投稿しているわけだから、いわゆる「ブロガー」のブログを拝見することもある。それは、お勉強である。

セオリーというか、基本の型みたいなものがあるなら学ばなければならない。

なにか、明文化されていない秘密・秘技のようなものがあって、それを知らないのは私だけ、ってなことになっては大変恥ずかしいから。

「こんにちは。ブロガーの〇〇です」が、重要な可能性だってある。それを知らぬばかりに、影でコソコソ、小馬鹿にされるかもしれない。

むろん、最後まで知らなければ恥じることもないのだが、いつかどこかの親切屋が、私の耳元で囁くかもしれない。

そうなれば、私は赤面。赤面したことについて赤面。恥の上塗り。それに気づいて、また赤面。この赤面循環が止まらずに、赤鬼に生まれ変わり、どこかの桃太郎風情に退治される、かもしれない。

「かもしれない」ことだらけで、心配するだけ損ってな感じもする。どれだけ気をつけても、思わぬ不幸というのはあるものだ。

だが、打てる対策は打っておこう。さもないと、責任を問われかねない。想定外では済まされない。だって、至るところに、「こんにちは。ブロガーの〇〇です」って文言があるのだから。

どこからブロガーなのか

まず、考えなければいけないのは、私自身が『ブロガー』なのかどうかということである。

もし、私がブロガーでないのに「こんにちは。ブロガーの・・・」なんて言ってしまえば、これは虚偽である。問答無用で詐欺である。釈明の余地もなく逮捕されるだろう。記者会見を開くことさえできない。

だから、まずは私がブロガーなのかどうかを考える。もし、私がブロガーでないのなら、例の挨拶は、そもそも使えないし、使えないのだから、使うかどうかで悩む必要もない。

つまり、大きな問題から解決することで、小さな問題を無意味にするのである。これが、正しい順序である。私は大人だから、木を見て森を見ずなんてことはしない。

さて考えますか。

一回でもブログを書けばブロガーなのか

ブロガーというのは、ブログを一回でも書いていればブロガーなのだろうか。例えば、3年前に気まぐれで書いた一本だけのブログ記事、これを持ってして、「私、ブロガーです」なんてことは許されるのだろうか。

おじさんが、「なに?ブログ?おじさんも昔、一回だけ書いたことあるよ。へへ。だからおじさんもブロガーーー、へへへ」とか言って、若くて可愛いブロガーに絡むことは許されるのだろうか。

多分、ダメだろう。このおじさんはブロガーではなさそうだ。このおじさんは「昔ブログを書いたことがある酔っぱらいで、今は只々、だらしなく笑い、ヨダレをたらしている赤っ鼻」である。

だから、ブログを書いたことがあればブロガーというのは、なし。

断固なし。

はい、次の人。

ブロガーはいつでもブロガーなのか

ブロガーはブログを書いていないときも、ブロガーなのか。

つまり、ブログを書いている最中だけがブロガーで、そうでないとき、例えば飯を炊いているとき、風呂を沸かしているとき、そのとき彼・彼女はブロガーなのか。

飯を炊くブロガー・風呂を沸かすブロガーなのか。

もしくは、飯炊きガーとか、風呂沸かしガーとか、『ガー』で伸ばして、なんかそれっぽい感じの、〇〇ガーになるのだろうか。

ただ、それはあまりにも、あまりにもなので、

飯を炊く元ブロガー・風呂を沸かす元ブロガーとするのか。

だが、『元』をつけるほどブロガーであったことは、過去のことではないし、なにかするたびに、元ブロガーになっていては、アイデンティティを見失うではないのだろうか。

こっちとしても、芯の通った人格と話をしたいから、しょっちゅう元ブロガーになられても困る。おそらく、他の人もそう感じるはずだから、ブロガーは常にブロガーなのだろう。

ブロガーがブロガーとして、統一的な人格を持っているからこそ、その周りの社会は正しく作動しているのだ。そうでなければ、いささか困る。

ブログを書いていないときに、一々アイデンティティを喪失されては、周りの非ブロガーはたまったもんじゃない。それは苦情となって、行政に届くだろうし、それよりも足の早い、マスコミが嗅ぎつけ報道するだろう。

ニュースなどで、『心神喪失した元ブロガー』なんて見たこともない。見たこともないということは、やはり、ブロガーはブログを書いていなくても、常にブロガーということだ。

ブロガーかどうかは自覚の問題

これでだいぶ、答えに近づいた気がする。つまり、私自身に『ブロガー』としての自覚があるかどうかということだ。

その自覚があり、自分のアイデンティティの帰するところが『ブロガー』ならば、私はブロガーなのである。

だから、私は自分で決めなければいけない。

自分がブロガーであるかどうかを問わなければならない、自分自身に。

飯を炊くときも、風呂を沸かすときも、私はブロガーなのか。

どうだろう。飯を炊くとき私はブロガーだろうか。風呂を沸かすとき私はブロガーだろうか。

どう考えても違う。私は、飯を炊くときは飯炊きガーで、風呂を沸かすときは風呂沸かしガーだ。

いや、それでは、結局ブロガーということなのか。『ガー』がついているじゃないか。

いや、それは『ガー』じゃなくても構わない。『ラー』でも『二スト』でもなんでもいい。

飯炊きラー、風呂沸かし二スト。これが私である。つまり、『虚ろ』である。

私の自我は、自身がブロガーであるという強い自覚がないため、そのときどきの行為に占有されてしまう。これでは、とうてい、ブロガーとは言えない。

ハッキリした。私はブロガーではない。

冒頭の挨拶について

私はブロガーではない。これは明らかだ。よって、「こんにちは。ブロガーの・・・です」は使えない。逮捕される。

ただ、問題はまだ残っている。

別に、ブロガーと名乗らなくても、挨拶はできるんじゃないの?ということである。

確かにそうだ。だが、これ以上の考察は今日はしない。不毛だからだ。

いずれまた、この冒頭の挨拶問題については考えてみたいと思う。