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備忘録としてのweblog

合成皮革の靴がダメだと聞いて、感じたことを(家から出ない人の場合)

合成皮革の靴はダメらしい。なにがダメかというとスーツに合わせるのがダメらしい。あと、リュックもダメらしい。もちろん、スーツに合わせるのがダメだと。

エンジニア向けのニュース媒体にて書かれた内容ということで、軽めに燃えていました。今日も至るところで火事。空気が乾燥してきています、火事には気をつけなきゃいけない。

まったく自分とは関係のない世界の話なので、笑いながら拝見した。可笑しいのは、記事というよりは、批判コメントの数々。ツイッターです。ツイッターツイッターはおもろいね。悪口とか批判が上手な人は頭が良い印象。

私もなにかを的確に痛烈にユーモアを添えて批判してみたいが、それは技術のいることなのでまだやらない。

いつかやる。それまでは、日々研鑽。ツイッターを見るという研鑽・訓練。

それはそうと、私は私で感じることがあったので、ここに綴っておこう。

外、怖い

私は合皮でない皮の靴を持ってはいるが、それはほとんどはかない。最近はもっぱらランニングシューズである。というか、靴自体をはかない日もある。

外を裸足で歩いているわけではなく、家の中をスリッパで歩いている。外に出るのは散歩かスーパーマーケット。その時は靴をはく。

だから、合皮でもなんでも、常に靴をはいているだけで大変そうな感じがするのだが、外はもっと厳しいらしい。大変そうだなと思った。

ましてや、スーツ着て、リュックまでかるって、それでもダメ出しされるんだから、そら大変。

今回は、ダメ出しした方がやられてるが、それでも争いのステージに上げられるなんてやっぱり嫌。外、怖い。

でも服は着ている

外に出る必要がほとんどないし、よって靴どころか服を着る必要もない。だけど、服は着ている。それは、人間の尊厳を守るためである。

別に、裸で暮らしている人に尊厳がないかといえば、そんなことはないと思うが、私の場合は裸になることで失われるものを死守したい。それは私にとって、最後の一線である。

うちには、猫がいるのだけど、私が裸になることで、「飼い主と猫」という関係性が壊れてしまうのが困る。私が裸になっても、猫の方は気にしないかもしれないが、私が気になる。

お互いに裸で、だけど、猫にはフサフサの毛皮があるから、文化的な領域において、負けることになるよね。

餌は、私から猫に支給されるのであって、主従関係は維持されるかもしれない。だけど、それに関しても危ういバランスになると思う。食物を配膳するものが、必ずしも社会的に上位にあるとは限らない。むしろ、位の高い者ほど、他人に配膳させるものだ。

マーブルのために

私と猫は人間同士ではないから、社会的な上下関係はない。確かに、金銭を負担しているのは私の方だが、猫には関係のない、というか次元の異なる話で、次元の異なる話をどちらかの次元の論理に合わせることは混乱を招くから、やらない。

ある意味スッキリしている。棲み分けがきちんとできているからだ。だけど、私が人間でないものになってしまえばどうだろう。それは、危険である。混沌が待っている。

今のところは、混沌と混沌の間に仕切りがあるが、これが混じってしまえば、もうそれは総じて真に、混沌としか言いようがなく、何も指針がないし、争いが起きるし、優しさがなくなる。

私が裸になって、人間でなくなってしまえば、私と猫の関係性が曖昧になる。混沌になる。そうなると、主従という関係性が変質して、概念が喪失する。そんな複雑な混沌を、家庭に持ち込みたくはないから、私は服を着る。

スーツは着ないし、スリッパだし、手提げ鞄どころか、リュックさえかるわないし、おまけに常に手ぶらだが、それでも私は人間であらねばならない。

それが、家庭の秩序を守る。混沌と混沌の仕切りになる。1つの世界のあり方が完璧でないとしも、違う世界を混ぜていいかといえば、それは違う。マーブルはマーブルであらねばならない。

手ぶらに関しては言い分がある。

家の中にいるのに手ぶらでない方がおかしい。なぜ、常に、何かを掴んでいなければならないのだろう。そんな奴は、よほど容量が悪くて、気色が悪い奴に決まっている。

家の中で常に何かを掴んでいないと成立しないような生活は根本的に、間違っているし、もし、それを肯定できる状況があるとすれば、パーティーしかない。スタンディング式のパーティーを、自宅で、1人で、開催するほど、私は落ちぶれていない。

以上である。

ふいに飛び込んできた合成皮革の靴の話から、私は、自分の人間性を点検することになったが、どうやら私はまだ人間である。しかも、まだまだ下には下(家で1人で立食パーティーする人)がいそうです。

※いや、私は、たまに1人立食パーティーをしているな。