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備忘録としてのweblog

【幸せな生き方】大切なことほど丁寧に誤魔化す(洗脳する)|あるいは泥沼を楽しむか、獣になるか

たった1つだけ、大切なものがあるのなら、幸せになれるだろうか。常に、その1つを見つめ、見ていなくても考えている。そんな状態は幸といえるのか。これは非常に難しいし、ハッキリとした答えを誰も言わないだろう。

丁寧に向き合い続けること

大体のことは丁寧に、そして繊細に心を配り、手入れをしていれば良くなる。ただ、それはいつまでだろうか。永遠に成長し続けるものなど多くはない。

変わる自分

1つの対象を見つめ続け、考え続け、それで早さは生まれるのだろうか。最初はいいかもしれない。0から始まることは、いつも楽しい。変化が目に見えるからだろう。

ただ、成長や発展の速度が緩やかになったとき、その変化より、自分の感じ方の方が早くなってしまう。

最後までごまかし続ける

あまりにも完璧なものを求めては、ほとんどなにも私達の手には残らないだろう。時間が永遠であればいいが、いや時間の方は永遠にあっても、私たちの時間には限りがある。

その終わりまで、決して完璧ではないものを維持すること、それでやっと、幸せの中に居られるのかもしれない。

幸せという洗脳

幸せでないといけない、と思い込んでいるのかもしれない。もっと穏やかなもの、ただ流れるということ、その流れに身を任せるということでは、なぜいけないのだろうか。

幸せの総量を平準化する、あるいは獣になるか

それを、幸せと呼ぶかは別にして、起こり得ることには、限界量、あるいはパターンがある。恋や、その先の結婚、それから家族としての生活や、個人的な趣味や仕事に対する情熱の在り方など、対象は違えど、自分の中の『動き』には定型がある。物事の成り行きにも定型がある。

もちろん例外はあるが、多くの人が頷ける感覚ではないだろうか。むしろ、違うもの、新しいモノ・事柄を捉えるときに、私たちは進んで、過去との類似性を求めていないだろうか。認識のため、予測のため、未知の恐怖をやわらげるために、そうする。

どんなものも、同じように変化するというよりは、そのように私たちが感じようとしているだけかもしれない。そうなるように手綱を引いているのは私たちかもしれない。

だとすれば、ゆっくりと進めてみれば、幸せ(のようなもの)は、長続きするかもしれない。1極的に投下した情熱に耐え続けるような対象は、そう多くはない。1人につき、1つか2つか。あれば良い方だ。

逆に、幸せを、短い時間・期間で感じ尽くしてしまうことで、より多くの出来事に触れられることも確かだ。若いエネルギーというのは、そのようにして、自分と関わるコトやモノを陳腐化していく。

幸せと私たちが表現するような、心の動き、その定義は、私たちを不自由にもする。そのメカニズムを分解して、理解しておいても(その理解が正しくはなくても、心の平安の手助けにはなる)、自分を見失ってしまうことはよくある。

むしろ、幸せという虚像の中にいる自分こそ、真の自分だとかなんとか思ったりもする。

歳を重ねることで、こうした心の動きをコントロールできるようになる人もいれば、ずっと、泥沼にはまっているような人もいる。泥沼は泥沼で楽しいのだろう。ずっと夢中でいられる。客観というものがない。それはそれで正しい生き方かもしれない。

いずれにせよ、選ぶのは自分自身である(実際には、選ぶほど冷静に生きられる人は少ないのだろうが)。

このように、考えてみること自体が間違っている可能性もある。もっと、純粋に獣のように生きてみてもいいかもしれない。泥沼に落ちるのはゴメンだが、いつも心が熱いというのは良きことだろうと、現代的な脳は感じもする。

宗教の時代ではないから、自らを戒めるという概念は薄い。私たちをコントロールするのは、法と経済的合理性、それから人それぞれの理性と趣が主だ。心の建て方にもバリエーションがあるし、ある程度は個人の裁量に任されている。それが、鬱陶しい人もいて、なにかに委ねるコトが好きな人もいる。それも否定されない。とにかく、どうしたっていい。

どうしたっていい時代なのだ。どのように生きるかということを考えるコト自体が、前時代的な姿勢なのかもしれない。