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備忘録としてのweblog

本は目に見える場所に置こう|整頓されていれば良いというものでもないようだ

数ヶ月前、目に見える範囲をスッキリさせるのが良いと思い、本は引き出しの中にしまいました。しばらくは、余計な刺激がなく、やるべき作業に没入しやすくなった気がします。しかし、最近は自分の頭の中でアイデアが枯渇している感じがしてきました。部屋が散らかっている時は、目に入った本のタイトルを眺めて、気になったタイトルの本を読むなどしていたのですが、最近ではそうしたことはありません。それはそうです。自分でそのようにしたのですから。

今、思い返してみればある程度情報が錯乱しているほうが良いこともあるのだななどと感じます。

さらに悪いことに、本の代わりに手に取りやすいスマートフォンタブレットの類で動画を見る量が増えました。グーグルが提示する関連動画や資料に脈絡もなく飛びつき、時間を浪費するようになってしまいました。キーボードを叩く時間も減り、ペンや紙も使うことなく情報が入っては抜けていくばかりです。音声で記録するという方法もあるでしょうが、それはまだ試していません。

まあ、それはともかくとして、本はある程度厳選した上で目に見えるように配したほうが良いと感じるようになってきました。自己管理を的確に行えるならば、また違う話になるのでしょうが、理想的な解が、いつも現実的で最適な解であるとは限りません。少しずつ、より良くなるように工夫していくべきでしょう。抜本的な改革は、その抜本さゆえに多くの配慮が求められます。時間や手間もかかるかもしれません。いや全てを捨てる・変更することが一瞬で出来るなら、時間も手間もそれほどかからないでしょう。

しかし、多くの場合にはよく考えて行うことや現実的な試行錯誤が必要になります。始める前に力尽きてしまうよりは、1日に数冊本を引き出しから出すことを念頭に置き、ときめかない本はメルカリにでも出品してしまいましょう。そうしましょう。

そして、書店や図書館に出向き、雑多な情報、とりわけ新しい情報に触れる機会も用意しなければいけないと感じます。本というのはある程度まとまった量の知識が、ある傾向や切り口、分野などで制限された上で配慮深く収められています。今の時代に紙の本を読むというのは、身体的な感覚を強化するイメージの物理的な容れ物であることだろうなどと思い始めました。

例えばデジタルデバイスに情報を多く格納する場合には、その情報は奥行きを持って整理されることになります。物理的に本を部屋に置く場合は、ほとんど並列に全てが見えます。机や椅子と本が等価に感じられるのです。物性を信奉するわけではありませんが、抽象的な代物を上手く利用しきるには、こちらの方が力不足なのではないかとかなんとか。