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備忘録としてのweblog

もし、小説を読んで自分が少しでも変化すれば、それは成功した読書体験だといえるだろう。

研究者の生き方や考え方が淡々と綴られる「喜嶋先生の静かな世界」。森博嗣の小説だ。 

 

タイトルと呼応するように静かな物語で、大げさな描写や展開はない。いや、あるにはあるのだが、それは終盤の数ページであるし、エピローグ的な扱いになっている。やはり、読みどころとしては淡々と進む主人公「僕」の日常にある。「僕」が観察する世界はとても静かな世界だ。我々は「僕」を通した世界に触れることで少し賢明になった気になれる。そんな静かな世界に存在する喜嶋先生はこの小説の中では最大の狂気として存在する。そして、その狂気に巻き込まれるように、「僕」は喜嶋先生の生き方・考え方に呼応して研修者として研ぎ澄まされていく。とくに、奇想天外なエピソードがあるわけではないが、彼らの物語に触れることで、読者は確実に何かを問いかけられることになる。この静かな世界には人を焚きつける狂気が潜んでいる。しかし、「僕」や喜嶋先生はあくまでも静かに生きている。彼らの日常は静かに流れる。彼らは外部に刺激を求める必要がない。自らの中に潤沢な資源がある。自身の思考と内なる欲求に導かれ視座を高め続ける。あるいは、深く潜り続ける。

普段知ることのない、研究者の生活や頭の中をかいまみることには新鮮な驚きと発見がある。「真に研究者足り得るには、問題自体を発見しなければならない。そのためには、まず知らなければならない。」

「僕」が成長する過程で、研究と勉強の違いに言及する場面は示唆に富むし、研究者たちの全体性への寄与の意識は全ての人が持つべき資質のような気がする。研究者たちは、個人の限界を知り、歴史の重みと偉人の仕事に敬意を払いながら、未だ未開拓の知を広げる。何がどこまで分かっているかを知ることから始め、研究の対象を定め、過去の蓄積に新しい上積みをする。そこには、驕りや、安いプライドが入り込む余地がない。フェアな共同性が満ち溢れている。

小説の後半には、そんな純粋な研究者達と社会システムの軋轢が描かれる。とても静かな語り口で、ほんの少しだけ。「僕」の目が見る世界はいつも静かに語られ、そこには装飾的な熱量がない。死さえも淡々と過ぎ去っていく。死と語りのバランスに違和感を覚える人も少なくないだろう。そしてその時、彼らが語る静かな世界が、実は狂気に支えられた人間の語る世界だったと気づく。観察されるものと、観察するものが入れ替われば世界の見え方は異なる。

「喜嶋先生の静かな世界」は、確かに静かな小説で、登場人物たちも静かな世界を生きている。しかし、その静かさの裏にある狂気に触れ、その静かな描写を成立させる「僕」や喜嶋先生の目を借りることで読者は新しい体験を手に入れることができる。もし、小説を読んで自分が少しでも変化すれば、それは成功した読書体験だといえるだろう。読む前の自分には戻れない。少しだけズレた世界に戻ることになる。「喜嶋先生の静かな世界」はとても、静かな劇薬だった。