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備忘録としてのweblog

とりあえず始めて、作業興奮に浸る|計画性が必須です

とりあえず何か書きましょうかということで、書き始めることにしましたが、とんと話題がありません。いや、ないこともないのだけれど、ポンと頭に浮かび上がってこないのです。ポンときて、プワーッと広がってガシッと書ければ良いな〜と思うばかりで、頭がおばかちゃんになっているので、まるでダメです。

てなことでも良いから、なんでも良いから、とりあえずキーボード打鍵してみましょうかいな。って書き始めたわけすが、いや『打鍵』はおかしいね。それじゃピアノだ。ピアノ弾いてるわけじゃおまーせん、私は。文字打ち込んでますねん。だから、キーボード殴打してますねん。

殴打もおかしいね。押す打つで、『押打』でいきましょえ。これで『おうだ』です。定義したところで、この後その単語を使うことなく文書を閉じたら、ほとんど意味がありませんが、それはそれで乙なことでおまいましょう。ってな感じで、これ以降キーボードの話はしませんからね。

作業興奮という言葉がありますけど

大体において、「案ずるより産むが易し」でございまして、これに関しては皆様もご経験がお有りなのでは?と私なんかは思うわけでして、だからとりあえず手を動かすこと、あるいは電話をかけたり、パソコンの電源をオンしたり、何をするかは人それぞれでしょうが、各々にとって最初の一歩を踏み出すことが肝要でありますね。

そんなことは、十全に分かっているにも関わらず、億劫になり、頭の中でモヤモヤとアーでもない、コーでもないと、こねくり回して、結局は、昼が過ぎ、夕刻を迎え、日が暮れる。そして、夜に包まれ、酒や食物に誘惑されて、快楽に溺れていくわけです。さらには、エンターテイメントの餌食になり、テンションは最高潮、恵まれた人は、夜這いというものに精を出すこともありんしょ。

人によって、違いはあるでしょうが、このような流れ、あるいはシステムに巻き込まれことは人にとって当然であり、それは幸福であり、はたまた不幸でもあり、この幸福にたどり着くためにあらゆる不幸を超えていく必要があるわけです。しかし、現在では幸福の前借りができますゆえ、後払いにした不幸が、後で、大きな負債となって一局所に現れ、ドン底というものを体験することにもなります。

しかし、またしてもそこに救済があり、それはリボ払いだとかカードローンだとか、なにがしかの名称を伴い私たちに、先伸ばす権利を授けようとします。しかし、人間いつまでも先に伸ばしておくことは不可能でして、それは、まあ悲しいかな、人間には寿命というものがありますので、よって期限という概念が現れるのであります。

この期限があるからこそにして、結局は帳尻を合わせなければならないのです。しかも、先伸ばした負債には利子という、これまた優秀な人類の発明品が乗っかており、適正なタイミングで正当に処理しておけば発生しえなかった煩いが蓄積しているのです。

まあ、こんなに話を大げさにしなくてもですね、よかったんですが、しかも話の本筋からもズレていますしね、途中から自分でも気づいていましたよ。

「あれ、俺変なこと言っとる。こりゃいかん。こんなことしてたら、あかんですよ。どうせ後で書き直すことになりますよ。だって整合性というものが世の中にはありまして、それには沿わんといかんのです。

これまで確かに間違いは犯した。しかし、それは元の道に戻れないほどに禍々しいものでもないし、むしろ人として成立するために必要不可欠な微量の悪を摂取したようなものであって、それは言うなればワクチン。そう予防接種。

俺の犯した罪など、罪と言えるほどのものではなく、それを罪と言うのは、逆にとんだおばかちゃんな世間知らずで、むしろそうゆー輩こそ、偏った正義を貫き、平和を脅かす存在になるのではないか?

そう考えると、俺のは、俺の罪は、もはや罪とも言えない。これは、福祉の一環だ。罪に対して、俺は税を払っている。税とはこの場合罰だ。つまり、この人間社会という矛盾をはらんだまま平和を維持する装置において、俺の罪は法では裁かれないし、むしろ、それは矛盾を抱えながらも維持することを第一義とする生命の営みにおいては、必要なこと。つまりなにが言いたいかと言うと、多少の寄り道は許されるだろってことさ、ベイビー」

ってな感じでここまで来たわけです。

多分ですが。

多分ですよ。

これが、作業興奮です。

計画性が必須

しかし、興奮だけで書いたものにはクオリティというものが保証されず、この文書の場合にも何の役にも立たない駄文となっております。みなさま、思考停止は危険でございます。やはり、計画性。計画性が必須でございます。

リボ払いはやめましょう。カードローンは計画的に。

投資は余剰資金で。

なにはともあれ、最低限の貯蓄も大事でございます。

良きアイデアや仕事というものには、心の安心と生活の保障があることが大事だと言われています。もちろん、逆境をバネにして成り上がる人もおられますが、わざわざ、辛い道を選ぶことはありません。不可避的に訪れた不幸と、自らの怠惰が呼びよせた不幸は違うのです。

慣性というものは、それ自体に善悪があるわけではありません。方向と、解釈が、なにかしらの意味づけをするのです。私に関していえば、作業興奮を利用した結果、このような当たり前の事実に気づくという、まるで進まないスゴロク状態に至りました。

私は思うのですが、これは継続に関しているのではないのでしょうか。毎日きちんと仕事について・作業について、思考と研鑽を重ねていけば、少しずつ真理にたどり着くはずなのです。それなのに、こんなゼロの地点に戻らされるということは、これは同じ所をグルグルしているおバカちゃんの筆頭であり、計画性の欠如、そして無力の自覚に基づいた心神喪失。まるで、台風の目から外周に向かってグルグルグルグルと進み、風ばかり強くなり、地面に縛り付けられた人間のサガ。翼を持たない生物の限界。月に行くために、地球上を何周もするおばかちゃん。

このような自覚による絶望は、心にも体にも悪いので、悪循環は加速し、無力感に苛まれ、それならば何にもしない方がお得じゃない?ってな感じの悟った風のなし崩し人間へ没落。貧困。嫉妬。負のスパイラル。

やはり、計画と継続に加え、思案することは欠かせないということが、分かってきました。しかし、配役を個人の中で適正に分担するということも、また難しいもので、これがほとんど全ての問題の根源にあるような気もします。

だから、人は協働しなければならず、分業・分担の精神が必要とされるのであります。人が成せることはその精神のサイズによって限界があり、それを拡張しようと思えば、他者と関わらなければなりません。

ですから、まずは、範囲の確定。これ肝要。

閉じます。