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備忘録としてのweblog

僕と自称してステキなおじさんになるには中分けが似合う必要がある

探偵ものの小説なんかでは、主人公が「私」と自称する。これだけで続きを読みたくなる人は少なくないはずだ。まあ、すべての小説が素晴らしいわけではないと思うけれど、期待値は上がる。やはり、フィリップ・マーロウ効果かいな。プルースト効果みたいに言ったけど、全然関係ない。

昨今では、個人ブログも多くあり、文章を書く機会は珍しいものではない。現にこうして私もブログ投稿をしている。今日は、「私」な気分だから私は「私」として振る舞っている。昨日は完全に僕だった。「僕」だった。

だが、「僕」の幅は広い。高齢の作家さんなんかも「僕」と言ったりする。これはズルいよね。真似できない。

私も「僕」が、ステキな響きを持つ年齢になるまでは生きたいと思う。歳をとってから「僕」って言いたいもん。

しかし、全てのご高齢の方が「僕」と自称してステキなのだろうか。

例えばチンチクリンで、歯がなくて、鼻毛が出てて、ランニングシャツのオジさんが股間を掻きながら「僕ね!おにぎりが食べたいよ!具はツナマヨ!」とかなんとか言っていたら、決してステキではないだろう。ロマンスが感じられない。田園風景とコンビニエンスストアが背景にある。日常的な泥臭さがプンとする。

そうならないために、今のうちから充実した日々を送らなければならない。ロマンスの香るおじさまでありながら、「僕」と自称して、茶目っ気を存分に発揮して若い女子に可愛いがってもらいたい。

しかも、その茶目っ気は、若者のだらしなさや未熟さに支えられた可愛いさではないからして、「可愛い〜」と喜ぶ女子も、背景にある大人っぷりを前提に捉えている。

相乗効果とはこういったものだろう。うむ。やはり、生きなければいけない。健康に留意し、しっかりと責任を果たしながら、ロマンスの香る「僕」にならなければならない。

髪型は中分けで

髪に白いものが混じり始めたら、是非、中分けにしたいと思う。ご高齢の中分けはステキだ。若者の中分けとは違う。余裕がある。育ちの良さのようなものが滲み出る。

そういえば、悪そうなオッさんがもてはやされていた時期があった。あれは何年昔のことだろう。思い返せないほど昔のことのように感じる。

時代がまた、悪いおっさんを求めても、私は中分けの「僕」なおっさんになりたいと思う。

絶対に「俺」とは言わない。基本的には「僕」でありながら、然るべきときには「私」になろうと思う。こなれた感じを演出するのだ。いや、演出するという意識もなく自然に、生まれたときからそうでした。中分けでした。って感じにならなきゃね。

1周回って中分け

一般には、ご高齢の人ほど短髪にした方が、精悍なイメージで渋いなんてことになりがちなのだけれど、やはり、中分けの似合うおじさんはいる。教養があって、芸術的な仕事をする人に多い気がする。もしかして、1周回って中分けだからステキなのかもしれない。そして合わせ技の「僕」である。

なんとなく、茶目っ気の正体が見えてきたような気がする。これは、今後も考えるべき課題なのかもしれない。

多分であるが、今から中分けにして「僕」と自称してもいけないのである。イケてることにならないのである。1周しなければならないのであーる。それでは、中年のコボちゃんである。

やはり、ギャップというものが大事なのだ。十分に歳を積み上げるまでは、中分けで「僕」は機能しない。今の私にできることは、将来の中分けのためにハゲないようにすることである。健康で文化的な生活を営みながら、中分けで「僕」に備えようと思う。